昭和54年4月14日 朝の御理解
御理解第93節
「氏子は神の守りをしておる者を神と心得て参詣する。守りが留守なら、参詣した氏子は、今日はお留守じゃと言おうが。神の前をあけておくことはできぬ。万事に行き届いた信心をせよ。常平生、心にかみしもを着けておれ。人には上下があるが、神には上下がない。人間はみな同じように神の氏子じゃによって、見下したり汚がったりしてはならぬぞ」
神の守をしておるものを神と心得て参るという、もうこれは金光教独特の表現だと思うですね、いわゆるご結界に奉仕をしておるものをいわゆる金光大神のお手代わりと見る言わば金光大神と見る、どうでも金光教の信心をさせて頂きますなら、ここん所を教師も信者もわからせてもろうて、まあ言うならば教師は教師らしく、本当に神の前に仕えさせて頂くものにふさはしい、修業であり精進をしなければならんのですけれどもなかなかもってそういうもう徹底した修業なるほど生神様じゃなあと言うような先生方がそうざらにおるとは思われない。
まあ、いうならばその先生の修業の様子その修業そのものが尊く見えるその修業そのものが有難いと見えるね、先生に何時もこのようなご修業させてと思うところにまあ言うなら取次ぎ者を神と見ると言うようなおかげがいただけるのでしょうけれども、得、沿うばっかりは行けないね、言うなら取次ぎ者とても人間だからネ、やはり最近言われておる事の中に教師もやはり休息がいるね、休みがなからねばいけんといったようなことが言われておるのですからやっぱりその時代時代におうた生き方が今後とも教団においても教師の上においても、あるかもわかりませんそこでいよいよもって私共がね結局人間軽視でなくて人間尊重と言う信心が御道の信心によって出来てくる、言うならばどういう事になりましょうか神の氏子としての、まあ言うなら見方と言うような事になるでしょうか。
昨日は十三日会で聞かせて頂いておりましたら、昨日は十三日の金曜日だったそうですね、もういよいよ悪日の中の大悪日と言うわけでした。ところがその神様がこんなにもね、こちらも頂き方一つでは有難い事になるのぞと言う、言うなら合楽理念はそこを説くわけですけどね日のお照らしなさる日に良い悪い日はないと思えと教祖の仰るお言葉をそのまま合楽理念ではねむしろその十三日を神愛の日または神願成就の日として尊び頂くのですね、昨日はもうそれこそ合楽だけで大変有難い事が色々続いた中でもいかにもぐずぐずしておったかのように見えておった、合楽建設の願いの事がね昨日成就の言うならば、亜、というまあお約束が竹中との中に結ばれ出来た、しかも本当にこちらが夢にも思わなかったような大変なおかげの中に昨日総代さん方それに信徒会長六名で竹中え参りまして、その話が取り決めになった、合楽にとってはもうそれこそ有難い日であり、なるほど神願がこのようにして成就しておると言う事をまあ、目の当りに見せられた一日でした。
言うならば日々の中にでも良い日があったり悪い日があったりと言うような見方が間違いであって、ね、言うなら世界の大悪日と言われるような十三日のしかも金曜日ですらもそういう尊い有難い日なのだと、頂く頂き方ね、それが人間私共の上にもそういういただきかたをさせていただクコとが合楽理念だと言う事が分かります。
人は悪人と言うね、人はとやこうそれこそ噂の人である、という人であってもねやはりそれを神の氏子としてみる信心が出来てくる、昨日、昨日の晩でしたもう十二時ごろ私御祈念終って下りておりましたら、まるまるさんが親子で参って来ておりますから、下がっておるところに言うてきましたから出てきました。そしてお話を聞かせていただきますともう本当にご無理を言うて県立高校に通ったばかりの娘さんででしたけれども、その学校から泣き泣き帰ってきたそしてもう学校を辞めると言うと、そげなこというて親先生にご無理を言うておかげでとおったと喜んでおるところに、なんでそげなこっばいうねち、ところが色々聞きたださせて頂いたら、もう自分は勉強する意欲もなんも無くなってしまたとそれがその学校のお便所を使わせて頂いた時に、三人の上級生が,あの、何ですかあの、何とかの、飲むとがあるでしょうが、シンナーで陶酔しておるところなんかをそれを見たんだそうです、そして私はあの学校にいきょつたらそういうようにだから、誘惑をうけるようだからもう私はあんな学校にはいかんとこう言う先生達もそれを大目にみてござるといったような傾向にさえあると娘のいうことではそうだとこういうのです。
私もそれを聞かせて頂いて本当にまあ油断も隙もならない世の中になったなと言う風に思うんですけれども、ね、だからもうどうでもまああのやめたいというならやめるという御取次ぎを頂かしてもろうてしにやいかんけれども、え、まあ世の悪と言うかそういうものを見たからせっかく通った学校も辞めてしまうというようなことではです、もう人間は生きてはいかれないよと。
綺麗な美しい良い事ばっかりという事ではないね、心を汚すような事を聞いたり見たりね、もうそれこそいつもこう言う学校は嫌だと言うともうこう言う世の中はいやだというように儚むような心が起こってきたらこの世には生きておられないよと、あんたはとにかく正義感と言うか正義感という事はいかにも今までの考え方では私もなかなか正義感の強い人だという風にまあ誉め言葉のようにいうとったけれども、正義感の強い人ほど言うならいつも腹を立ておる感じがするよとね。
確かにそうですあの正義感の強い人はいつも腹を立てておるです何を診ても聞いても腹がたつ間違った事を言うたりしておるとそれが腹が立っていくね、だから信心という物はそういう言うなら昨日の御理解でいくとね、いうならば変人にならなければいけないね、信心は変人になれ、変人にならんと信心は出来ん変人とは直ぐいことぞとある。
其れは勿論真っ直ぐい事だけれども、神様がご覧になっての直ぐい事であって普通道徳的に言う直ぐいとか正直とかは違うんだよと、ね、ンなら昨日のまあ事を申しますと人からたとえ悪くいわれてもいうならそしられてもです神様の仰せには背かれんと言う生き方が直ぐいんだよと、ね、だから直ぐい生き方を身につけてそりや、ンなら学校にいかなならん世渡りというものは信心でおかげを頂く、だからこの頃からもうまる少の博愛(博道)というご本が皆さんもご覧になったでしょうけれども本当にこれは子供達の信心だろうかと思うような、あの素晴らしい本がでけとりましたから、この本でも読んでそしてこれから一つまるしょうにでも出てくるような気持ちになりなさい、というて、まあだ、それこそもうそんな話が入りそうにもなかったけど、ま、そう言うて返したんですけどもね、そうでしょうがね、世の中と言うものがね、正義感が強いと言ったような事で自分はそれこそ正義のとおもっておりますけど、正義感が強いという事は自分というものを非常に窮屈に寝、そのもう言うなら、間違った事を言うたりしたり言うなら汚らしい事をしたりしておるともう其れはもう自分の心を汚すだけでなくて其れを言うならば叩きつけるようにそのあのこうしたいような心が起こって来る、言うならそのとにかく何を見ても聞いても腹が立つことばっかりというようなことになるのですね。
信心と言うのはそうではないですよね、正直であってはならんということではないですけれども神様の前に正直いうならば合楽理念はそこを説くのです。信心でいうのだから道徳でもなからねばまあ常識道徳と言うても、それに超がつく帳道徳なんですね其れは結局有難くなると言うそこから生まれてくる心なんですけれども、それをいうと神様の言うならば仰せどおりの人が不正直だというても馬鹿というてもですね神様のみ教えを守っていくという事にはそむかれないという事を身につけて行く事が信心だとね、徹底してそういう信心を頂く時にですそんならば皆さんがここにお参りをして来て先生のどういうところを見ろうが聞こうがですね、生神金光大神のお取次ぎを頂くというような頂き方も出来るこれはもう極めに極めたとこなんです。ねそこで先生もそういう信心身につけていかんならんと同時に御取次ぎ願う皆さんもやはりいうならば神の氏子としてのということを、もうちっとまあ詳しく今日はまあ聞いて頂いた訳ですけれども、ね、と同時に、んなら、取次ぎを願うもの願われるものやはり金光大神を神ならわして頂こうという精進又はそういう姿勢が大事な事だけは間違いが無いね、けれども言うならばその先生とても人間なんだからね、どういう事を言うたりしたりする所に其れにあるやら分からないね、それをもう私はもうげんめつを感じたともう教会に参るのは嫌だと言うような事と同じですよね。
もう学校に幻滅を感じた、もう私はあんな学校にはいかんと言うような事になるのです教会でもやっぱそんなのがあります、先生がああいうたからとか先生のああいう態度を見たからとかと言うような事で信心を止めていくようなひとさらがあるのですから、ギリギリの時には私はそこを思わせて頂いて言うなら徹底した合楽理念の頂き方。
神には裃が無いという事だから私共にもいうならば裃があってはならない、器量が良いとか悪いとかと言うような事で自分の心が動かんで済むような信心を徹底頂いて行くことが私は金光教のまあ私は信心だと思いますねこれはなかなか難しい事ですけれども、だからそういうことに何か直面した時にはです、例えばそういう今日頂いたような所を思うて見てね、そこを思い直し又は聞きなおし、して自分の信心を正していかねばならない、けれどもその言うなら前提としてですやはり教師は教師らしゅう、本当にうちの先生は神様のような人だとね、あの精進をしておられる姿を見ただけでも有難いね、だからでなからねばならんけれども、そうで無からなければ有難く思えないと言ったような事では信者側に立った時にです自分の信心を崩さなければならない、自分の不思議に気分の良い時にはどういう先生の姿を見ても有難いところが自分の気分が悪い時先生のどういう姿を見ても嫌になって来る問題は自分の心一つでありわが心であるという事に結論するとなるわけですよね、自分の心が有難い時にはどういうものを見ても言わば有難いという事です。
だから極めていくところはそこだという事でございますね。 どうぞ